山本満理子の「政治と私」〈中編〉

人生初めての選挙運動はもう本当に私の知らないことばかりの怒涛の日々でした。2003年1月、後援会事務所を開設し、事務所開きを行いました。事務所は二階建てのプレハブ、お手伝いしてくださる方が毎日何十人もやってくる……という国会議員選挙並みの体制でした。知らない間に政治活動用のリーフレットや名刺ができ、訳も分からず言われるがままに人に会って頭を下げ、しゃべって、握手しての繰り返しでした。私が伺えないところは親も駆り出され、ご挨拶させていただきました。

そして2003年4月。いよいよ岡山県議会議員選挙が告示され、9日間の選挙運動期間が始まりました。最初は全く手ごたえがなかったのですが、最後の三日間はそれまでと大きく空気感が変わりました。選挙カーで街中を走ったときに手を振ってくださる方の数が驚くほど増えました。これが、選挙でよく言われる「風」が吹いたというやつか……と。その時、選挙が病みつきになるというのは少し分かる気がしました。ただ、選挙カーを使わないといけない選挙はお金がかかるし、抵抗を感じる女性も多いので、決して良いシステムではないと思いますし、実際当時ももう一度やりたいとは決して思いませんでしたが……

9日間の選挙運動期間を終え、投開票日を迎えました。最後の3日間の手ごたえと事前の情勢調査などから当選できそうということを事前に伝えていただいた私は、なんと事務所に内緒でこっそりエステに行きました。なぜなら9日間、選挙カーの窓から顔を出して風を浴びて走り回り、顔がバッキバキのカッサカサ、おまけに真っ黒。当選となればきっとテレビや新聞に映る……このままで映りたくない!と思った27歳でした(笑)。

こうして初の選挙運動を経て、私は岡山県議会議員となりました。議員として何ができるのかもまた選挙同様、一から勉強でした。県議会の本会議は年4回しかなく、委員会も常任委員会と特別委員会にひとつずつ所属をするのですが、それぞれ月1回くらい。ただ、それ以外に地元の行事に参加したり、県内各地の様々なレベルの選挙応援に駆り出されたり…と、とにかく忙しくてただ日々が過ぎていきました。主に文教委員会に所属し、教育や子どもをテーマに活動して、議員条例にも3件かかわったものの、社会を知らないままで議員になり、子育ても経験していないせいで自分のなかで課題意識まだ今のように強くもなく、力不足を痛感することばかりでした。

議員になって2年目、自民党を大きく揺るがした「郵政解散」は私にとっても大変な出来事でした。地元の選挙区に刺客が送り込まれ、どちらを応援するのか迫られたのです。あまり詳しくは書けませんが、政治家としての人間関係など様々な事情やしがらみがあり、まったく自分の思うように動けませんでした。

それに仲間と呼べるような仲間もいませんでした。同僚議員は年齢が一番近くて10歳年上。それ以外は父親どころか祖父に近いような世代です。54人の議員のうち女性は私を含めて5人だけ。狭い部屋の会合に参加したら、男性議員たちが煙草をぷかぷかさせながら、一斉に栄養ドリンクの蓋を切ったときに一気に充満したあの臭い…嫌気がさして出て行ったこともあります。ハラスメントの意識などほぼない時代、これまたここではあまり詳しくは書けませんが、疲れ果ててどんどん自分が擦り切れていくようでした。

そして次の選挙が近づいてきました。私はこのまま議員を続けていいのだろうか。続けられるのだろうか。私は大変な寂しがり屋ですが、柄にもなく一人になりたくなって、地元から逃げ出すように一人旅に出ました。忘れもしない12月27日、向かったのは冬の沖縄。ホテルに閉じこもって、本を読み、頭を整理しながら自分の気持ちに向き合い、これからどうしようか自分を見つめ直していました。

(後編に続く)